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18話 【決別狂騒】


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18話 (歴) 【決別狂騒】―ケツベツキョウソウ―



「異動願、ですか?」
思いもよらない言葉に、私は復唱せざるを得なかった。
「提出したんですか? 麻生さんが?」
私の聞き間違いでなければ、POSルームを訪ねて来た柾さんは確かにそう言った。
「麻生さんがこの店にいらしてから、まだ3ヶ月も経ってないですよ?」
家電担当の麻生さん。柾さんとは同期らしく、入社以来の腐れ縁なのだそうだ。
顔を付き合わせれば、その顔立ちからは似合わない辛辣な言い合いが始まる2人。けれどそれも友情の形の一つだと、私は思っている。
「忘れもしない、元旦だったな。確かに11週にも満たない。今回は早いな」
今回は早い? 衝撃の事実を暴露する柾さんに、私は「そうなんですか?」と驚く。
「どうしてそんな急に? 異動願って、どうして……。何かこの店に不満でもあるのかしら……」
「まぁ、色々あるんじゃないか? 以前からストレスは溜まる一方だとぼやいていたしな」
そんな!
ここ最近の麻生さんの言動を振り返ってみても、原因になりそうな出来事は思いつかない。
麻生さんとは友情を育めそうな気がしていただけに、察することができなかった至らない自分の不甲斐なさに凹む。
悶々と考え込んでいると、視線を感じた。柾さんに見られていることに気付き、心臓が高飛びした。思わず目を泳がせる。
「な、なんでしょう……?」
「前々から思ってたんだが、麻生と仲がいいな」
「麻生さんにはお世話になってますもの。なので、私にも麻生さんの心配をさせて下さい!」
下から覗き込むように、私は訴えた。柾さんは言葉に詰まったようで、それでも口を開けかけようとした。
その瞬間、柾さんの胸ポケットに納まっていた携帯電話から着信音が鳴り響く。当然会話は中断した。
「柾だ」
名乗った後は相手から一方的に話を聞くのみだった。柾さんは懐に携帯電話を戻しながら私を見た。
「麻生に災難だ。ストレスの原因がお出ましらしい」
「私も行きます!」
「千早、仕事は……」
私はちらりと掛け時計を見る。
「昼休憩です」
行こうとして声を掛けられたのだ。まさか私を休みを取らせまいとする嫌がらせでは? と疑いたくなるタイミングで。
「そうか。だがキミは隠れているんだ。いいな?」
「はい」
指示に従い、柾さんの後ろをついていった。
従業員通路から売り場に出る。どんどん足を進めて行くと、やがて騒がしい場所に行き着いた。
そこは、麻生さんが担当している家電売り場だった。
平日ということもあり売り場には数名の客しかいなかったが、かと言ってそこで大きな声を出されては客の目を引くこと必至だった。
見た目は35歳前後だろうか。隙のなさそうな美女がそこにいた。黒のビジネススーツに朱色のスキッパーブラウスが映える。
肩までの髪にはウエーブがかかり、持っているバッグも高価そうだった。
都会の会社に勤めるキャリアウーマンに見えなくもないが、平日のスーパーマーケットが舞台では、彼女の格好は少し浮いていた。
女性は麻生さんに向かって声を荒げているようだった。カウンターを挟んで対峙している。
女性の言動と態度に、麻生さんは耐えているようだったけれど、その眉間には皺が寄せられていた。
柾さんはオロオロしていた家電売り場の女性社員に近付くと、小声で言葉を交わす。
「電話をくれたのはキミだね? どうした?」
「それが……。あの人が、今日もまた来たんです」
あの人とはどうやら、件のスーツの女性のことを指しているらしい。
「今日はどんな難癖を付けてる?」
「婚姻届に判を押せって……」
「えっ!?」
思わず驚きの声をあげてしまい、柾さんから無言の視線が突き刺さった。ごめんなさいと慌てて両手で口を塞ぐ私。
「今日は特にしつこくて。警備員を呼ぼうとしたら、麻生さんがやめてくれって言うんです。
でもこんな調子だから困ってしまって。柾さんに連絡を入れた次第です」
「そう、ありがとう」
このままでは騒ぎが大きくなり、上層部にこの騒動が耳に届くのも時間の問題に違いない。
それどころか、本社にすら筒抜けてしまうかも知れない。いつだって男女間のトラブルは情報の伝達が早いから。
お客様の手前、奥で話した方が良いのではと考えている私の横を、柾さんが横切る。
彼は麻生さんを自分の背後に隠すよう、前に出た。
それまでマシンガンのようにまくし立てていた女性は口を閉ざし、柾さんを睨み付ける。
「……何なの、あなた?」
「社員の柾と申します。お客様、この者が何か失礼なことを?」
「邪魔よ。どいてなさい。あたしは環に用があるの」
環? 環って誰? それが麻生さんの名前と分かったのは、柾さんの言葉でだった。
「分かりました。麻生と話をして下さい。ただし、店の奥で話して貰えませんか?」
「やめろ、柾!」という麻生さんの叫びを無視して、柾さんはバックヤードへと女性を促した。
「柾!」
バックヤードへ入ってからも、麻生さんの悲痛な叫びは止まない。それどころか懇願しているようにも見える。
こんな麻生さんを見るのは初めてだった。
今から何が起ころうとしているのか。麻生さんは何を頑なに拒んでいるのか。
こんなにも取り乱した麻生さんを見るのが辛くて、私は声を掛けることが出来なかった。


***

一般人をバックヤードへ連れ込むには入店許可証がいるので、私たちは検問まで戻って手続きを済ませなければならなかった。
道すがら、女性が化粧室に立ち寄りたいと申し出たので、柾さんは「隣りの部屋にいますから」と告げた。
隣りの部屋とは、私の仕事場であるPOSルームだった。
「どうして……」
呻吟の句を呟いたのは麻生さんだった。その目には怒りを湛えていた。憎しみを、女ではなく、柾さんに向けている。
麻生さん。本当にあなたなんですか? そう心配してしまうほど、彼の形相は様変わりしていた。
かの女性は麻生さんに甚大な被害を与え続けているのだろうか。
「どうしてあの女をここに連れて来たんだ! やめろと俺は言った! 何度も何度も、そう言っただろう!」
麻生さんは噛み付くように、非難に似た苦情を訴える。私はおどおどするだけ。一触即発状態の2人を、仲裁出来ずにいる。
見守っているわけではなく、単に無力なだけ。麻生さんに噛み付かれたくないというのが私の本音だった。
対する柾さんは、麻生さんの悲痛な訴えを右耳から左耳へと聞き流しているかのように落ち着き払っていた。
わざとたっぷり時間を取って、柾さんは切り返した。
「僕はお前が頼ってくるのを待っていた。案の定、そんな気配は微塵もなかったが。だからいま手を貸そうと思う」
「へぇ?」と、麻生さんの口元が歪んだ。それはまるで皮肉をひけらかすような嘲笑だった。
「いい加減、片をつけろってか。その手段として俺をあの女に売るわけか」
「見くびるな」
柾さんは鋭く、そして素早く断言した。その声に、私も、そして麻生さんも、ビクリと肩を動かした。
「ヒステリックな女の声なんて誰にも聞かせたくないだろう? 
それに、ケリをつけるべきだ。いつまでも逃げ続けるわけにもいかない。違うか?
彼女に移転先を嗅ぎつかれるたびに転勤届を出しているんだ。いくら優秀でも、これ以上は『上』が黙っちゃいない。
その所為で、出世できずにいるんだから」
その事実に私は驚いた。
麻生さんが昇進試験にパス出来なかったのは、短いスパンで異動願を提出する勤務態度が問題視されていたからだったのか。
この問題が解決しない限り、チーフ職に就けないのだ……。
でも、上層部も酷くはないだろうか? 麻生さんの有能ぶりは知っているだろうに、なぜ大目に見てくれないのか。
行く先々でストーカー行為をされれば、誰だって麻生さんのように逃げたくもなる。
状況が状況なのだから、警察に相談するとか、何かしらの処置を取ることだって出来たはずなのに。
それとも、妨げになるような問題でもあるのだろうか。意外と根は深かったりしたりするのかも。
有能な麻生さんのことだ、こんな事件さえなければ、柾さんと同じく出世街道を突き進んでいたに違いない。
それだけに悔やまれる。麻生さんはこのまま支店に縛られたまま、燻っていてはいけないのだ。
この会社の未来のために、もっともっと上に行って貰わなければならない人材。
だからこそ柾さんの願い通り、いまここで、全ての因縁を断ち切って欲しい。
無言の沈黙が流れ、その中をたじろがずにいると、女性が窓の向こうの廊下側に姿を現した。
柾さんは内側からドアノブを開け、彼女を招き入れる。カーテンを閉める。これで廊下側からは何も見えない。
柾さんの機転――POSルームに連れてきたこと――に感謝だ。
「なぜ私がこんなところに」と鬱陶しげに呟く女性を、私は興味をそそられて盗み見た。
ここまで近ければ、持ち物がブランド品だと分かる。薄給の私でも知っている。泣く子も黙る天下御免の印籠、エルメスのバーキンだ。
食い入るようにそれを見つめていたが、悠長に構えている時ではないと我に返った。
正確には、私を現実に引き戻したのは、柾さんが発した椅子を引く音だったのだが。
「お座り下さい」
彼女は軽く鼻を鳴らした。まるでこんな安物の椅子に腰を下ろすなんて真っ平ごめんだとばかりの反応だった。
これから何が起こるのか。当然ながら、私は知る由もなかった。
ただ、3対1だと思っていた私に対し、彼女の方は麻生さんしか見ていないことが気になった。
これは根が深いどころの騒ぎじゃない。これから何かが起こるに違いないと、心では嫌な予感を確信していた。
だけど、私はひたすら否定したかったのだ。話し合いだけで解決するのだと思っていたかった。
だって、誰かが傷付く姿なんて私は見たくなかったし、そんなことを考えるだけでも耐えられないから……。


***

話し合いは、どこまでも平行線だった。それもそのはず、いつまで経っても麻生さんに発言権が回って来ないからだ。
女性は(そう、この時点でまだ彼女の名前は明らかになっていない。意外なことに)一方的に麻生さんに不満をぶつけ続けている。
たとえば、こんな風に――。
「環の誕生日プレゼントに買った車なんだから、好きなように使ってくれればいいのに、どうして鍵を返してくるの!?」
「クリスマスプレゼントに送った時計だって、なぜ突き返してくるのよ!?」
「毎日電話してって言ってるのに、どうしてしてくれないの!?」
「部屋の鍵を、どうして返すのよ!?」
そしてこの台詞で締め括る。
「どうして婚姻届にサインしてくれないの!?」
この人は、心底麻生さんに惚れ込んでいるんだ。繋ぎ止めておきたくて必死なんだ。麻生さんを手放したくなくて。
――だけど振り向いてくれなくて。
物欲で引き止める手も、麻生さんには通用しなかった。それどころか自分の努力を無下にされて、彼女は怒り狂っている。
人を振り向かせる手段は豊富にある。この女性はお金を駆使した。
けれど私は知っている。麻生さんは物欲に揺らがない男性だと。寧ろ、そうした繋がりを嫌う人柄なのだと。
「……有賀さん」と発した麻生さんの声からは、侮蔑の感情がうかがえた。
「そんな他人行儀な呼び方はよして。朝霞と呼んで」
甘い声でねだる彼女は、麻生さんが言葉を発したこと自体を喜んでいるように見える。
さっきまであんなに怒っていたのに、一体どういう神経をしているのか、さっぱり分からない。
「あなたとは付き合えないと、何度も言ったはずです」
麻生さんの言葉に、有賀さんは腕を組んだまま口をへの字にし、目を細めた。
一体どんな出会い方をして、どう付き合えば、こんな風に捻じ曲がってしまうのかと首を傾げたくなった。
「環、あなた……」
「街で難儀していたあんたを助けたが、俺にとっては、ただそれだけのことなんだ」
「だからお礼がしたいのよ。あなたは私の夫に相応しい、勇敢な人だわ」
麻生さんは、理解しかねるとばかりに眉根をひそめた。
どんな言葉を告げても、一語一句として伝わらないのではないかと危惧している目。
事実、今までだってそうだった。
彼女は麻生さんの『言葉』に耳を傾けようともせず、『表情』から感情を読み取ろうともしなかった。
こんなにはっきりと拒絶を訴えているのに。
……否、通用しないからこそ、彼女はストーカーを続けていられるとも言えるのかもしれない。
でも、それは。麻生さんの心を蔑にしているのと同じではないか?
「麻生さんの気持ちはどうなるんですか!?」
思わず私は声を出していた。
まるで時限爆弾を発見したかのように驚き、目を剥いたのは麻生さんだけではない。
今まで壁に背を預けていた柾さんも、何を言い出すんだとばかりに私を見た。
だけどもう我慢の限界だった。勢いに任せて言葉を吐き出す。
「あなたがどれだけ麻生さんを好きなのかは分かりました。振り向いてもらいたい気持ちだって分かります。
でも、当の本人が……麻生さんが嫌がってるじゃないですか。なぜその声を無視するんですか?」
刺すような視線を受けるだろうと覚悟した。けれども、その予想は大きく裏切られた。
「環、印鑑はどこ?」
「……っ!」
何も聞いちゃいない……。私など眼中にないんだ……。
彼女の視界には麻生さんしか映っていないし、彼女の頭の中には麻生さんとの未来しかない。
そこまで人を一途に想う心が怖かった。一分の隙を見せない集中力が恐ろしい。
同時に、麻生さんの嫌がり方が尋常じゃないことに、ようやく合点がいった。
かつて麻生さんから昼食を誘われた時、彼は意味深な言葉を呟いていた。『千早さんとなら、安心して食べれそうだから』と。
これは、女性恐怖症を示唆していた言葉だったのか。
有賀朝霞という女性に出会ったが故に、女性を苦手としてしまった彼の、悲痛なSOSサインだったのだ。
ふつふつと込み上げてくるのは怒りだった。
何様だと叱られても仕方ない。だけどこのまま麻生さんを見捨てるなんて、私には出来なかった。
「こっちを見て下さい、有賀さん!」
「環」
「有賀さん!」
何かが頂点に達した。
人は理性を簡単に失えるものなのだったのかと、冷静に分析している自分がいる。
「麻生さんの恋人は私です! 私は麻生さんの、」
「! やめろ、よせ、千早さん!」
「だって、麻生さんっ」
「千早さん、いいからあんたは外に出てろ! 彼女は俺に関わる全てのものを極端に嫌う。標的にされるぞ!」
「いやです。だって、麻生さんが可哀想。有賀さん、私は麻生さんの恋人で、」
言い終わらない内に、頬に冷水のようなものを浴びた感触を覚える。
咄嗟に起きたそれが、彼女の渾身の力を込めた平手打ちだと気付いたのは、情けないことに、数秒を要してからだった。
「千早さん!」
ちかちかと明滅している。これは何だろう? 視神経がおかしいのだろうか。
私が呆然としていると、私の前に立ちはだかる影があった。柾さんと麻生さんだ。
「っ、よくも……!」
「麻生、よせ!」
何が起こっているのか分からない。理解したいのに、視野はぼやけ、思考回路は麻痺してしまっている。
微かに見える頼りない目からの情報によれば、柾さんは、麻生さんが振り上げた手首を掴んでいる。
「それは反則だ」
「だが、こいつは千早さんを!」
「だから殴るのか?」
「お前だって、はらわた煮えくり返ってんだろ!? 何で止める!?」
「どんな理由でも、女性に手を挙げるべきじゃないんだ」
「……っ!」
麻生さんは苦痛な表情を私に向けた。
「千早さん……悪い……!」
麻生さんが謝ることなんてない。麻生さんは悪くない。
そう伝えようとしたけれど、言葉は出てこない。嫌になるほどもどかしい。
「お前なんか……」
私から目を逸らした麻生さんは有賀さんに向き直り、心の底から吐き捨てるように言った。
「お前なんか、大嫌いだ……っ!」
「!」
息を呑む音がした。それはその言葉を向けられた有賀さんのものだった。
有賀さん、と柾さんの声が続く。
「こいつはあなたをぶつか、殴ろうとした。
その事実で、もう分かるでしょう? こいつに、あなたへの想いなど微塵もない。
麻生の目を見て下さい。あなたに向けられているのは敵意だけです。
あなたは麻生を怒らせた。こうなると、僕にだってもう手は付けられません。
話次第では恋のキューピッド役を買って出てもよかったが、そんな必要もないらしい。お引き取り下さい」
「環……嘘でしょう? ねぇ、環!」
尚も縋り続ける有賀さんに、麻生さんは背を向けた。鍵を開ける。
「10秒以内にこの部屋から出て行って下さい。二度と俺たちの前に姿を見せないで欲しい」
「イヤよ! お願い、謝るから! 私にはあなたしかいないの! 環、あなたしか……!」
「もう……たくさんだ……っ!」
両手の拳を握り締め、かぶりを振る。
ビクリと有賀さんは肩を震わせた。声を震わせ、何度も麻生さんの名前を呼ぶ。
「やり直せないの……?」
「10!」
「!?」
「9!」
無常にもカウントが始まる。私も柾さんも、ただ成り行きを見守るしか出来なかった。
私たちは口を挟んでしまったが、そもそもこれは麻生さんたちの問題で、そしてこれが、麻生さんの出した結論だ。
「4」
「環!!」
悲痛な叫びと共に、有賀さんは駆け出し、麻生さんの背中に縋りついた。
「好きなの……本当に……あなたが……!」
「3」
「愛してる……」
「2」
「環……」
「1」
麻生さんは、有賀さんの背中を押した。
それは強く「ドン!」とだったか、それとも軽く「トン」とだったのか。
ともかくゼロカウントを告げる前に、有賀さんはPOSルームから押し出された。
それは麻生さんの最後の優しさ。
もし彼がゼロと口にした場合、異常を察知した警備員が駆け付け、有賀さんを連行しただろうから。
そう、麻生さんの左手の人差し指は、エマージェンシーコールボタンの上にあった。
それなのにボタンを押さなかったのは、恐らく麻生さんが彼女を心の底から憎め切れていないから。
きっと彼は、自分を慕ってくれる人間を無下に出来ない人なんだ。
その優しさが、時には仇になったり、人を傷付けるんですよと、私は涙で霞んだ目で麻生さんを見た。
有賀さんは名残惜しそうに麻生さんを見ていたが、彼が背を向けた姿を見るや、やがて静かに去って行った……。


***

「2人とも、悪かった」
麻生さんは力なく言った。
そしてネクタイを緩め、カッターシャツの第一ボタンを外す。まるで解放されたことを実感するかのように。
「いいえ、いいんです」
柾さんもフォローするとばかり思っていたのに、なぜか厳しい顔を麻生さんに向けていた。
「一時はどうなるかと思いました! 安心したら、のどが渇いちゃった……」
麻生さんと柾さんは、そんな私にしょうがないなとばかりに苦笑した。
「まぁでも確かに、僕も一息つきたい気分だ。飲み物を買って来るよ」
「あ、私が――」
のどが渇いたと言いだしたのは私だ。私が買いに行かなければ申し訳ない。
柾さんは私を制止させると、麻生さんに向き直って厳しい口調で言った。
「僕は麻生に腹を立てている。
麻生が女性に手をあげようとした件は、僕の主張を押し付けただけだからこれ以上は何も言わない。
が、千早さんに手をあげさせたことは許さない。僕がいない間に土下座するなりして誠心誠意謝罪するんだな」
柾さんが怒っていた理由は……私?
「分かった」
驚いている私と、素直に応じた麻生さんを残し、柾さんはPOSルームから出て行った。
空いている椅子に深く――きっと疲れたからだろう――足を伸ばせるだけ伸ばして休む麻生さんに、私は尋ねた。
「あの女性のこと、これで良かったんですか?」
「あぁ、これで良い。彼女を警察に突き出したくなかったし。彼女、良家のお嬢さんなんだ。家名を傷付けたくなかった」
「麻生さんは有賀さんのこと、好きにはならなかったんですか?」
「ならなかったどころか、女性恐怖症の根源だから、それは無理だ。お陰でここしばらく恋愛とは無縁だったなぁ」
「何だか勿体ない気がします。麻生さんと付き合ったら、とても楽しそうなのに。でも、これからですよ、これから!」
「前向き応援サンキュ。前向きついでに千早さん、俺と付う合うか?」
「え!? か、からかわないで下さい」
「からかい甲斐があるからな、あんたは。柾がちょっかいを出すのも分かるよ」
ぎし、と音を立てる椅子。それは麻生さんが立ち上がった音だった。
「……麻生さん?」
身長差は約20センチ。見下ろす麻生さん、見上げる私。
ふと、頬に冷たいものが触れた。様子を確かめるような、労わるかのような、丁寧で優しい手付き。それは麻生さんの掌だった。
「ごめんな。……こんなに綺麗な肌を叩くなんて、ほんとに許せねぇ。痛かったろ?」
「あの……いえ……」
ビックリして言葉も出ない。頬が熱いのは、嫉妬に駆られた渾身の一撃のせいだけではないだろう。麻生さんも一因だ。
「あんたは勇気があるなぁ。俺なんて、怖くて今までずっと防戦一方だったってのにさ。はは……情けねぇ話だ」
「そんなことありません。麻生さんは麻生さんなりに頑張ったじゃないですか。女性恐怖症の原因だったひと相手に」
「おまけに優しいんだな。俺なんかを励ましてくれるのか。……千早さんは俺の恩人だ。ありがとう、恩に着るよ」
私の左頬をゆっくりさする麻生さんの右手。その親指が唇を掠める。
心臓が高跳びした。意識せずにはいられない。たまたまなのに。偶然なのに。……そうですよね、麻生さん?
そうに決まってる。だって、つい数分前まで彼は女性恐怖症の真っ只中にいたひとなのだから。
「ん? なかなか火照りが治まらないな。本当に大丈夫か……?」
どうして囁く声で訊くんですか? どうしてご自分が原因だと気付いて下さらないんですか? まったくの逆効果です、麻生さん。
「あれだな。もっと早く、千早さんに会ってたら……」
会ってたら? 
でも、その先を聞くことは出来なかった。
麻生さんは最後まで優しく頬を撫でると、「そろそろ柾が帰って来る頃だ」と呟き、その手をゆっくり離した。


***

帰って来た柾さんの手には、ホットのBOSSカフェオレ缶が1本と、アイスのBOSS缶ブラックコーヒー2本が握られていた。
「外は寒いからな。千早はカフェオレのホット。だが、頬がまだ熱いだろ? アイス缶の方で冷やすと良い」
「ありがとうございます」
「あぁ、でも」
「?」
「冷たい缶を持っていたから、僕の手が冷えてるんだ。君の頬で、この指先を温めて欲しいな」
そう言うなり、今度は柾さんの掌が私の左頬に触れた。確かに、その瞬間は冷たかった。でも。
「ちょ……柾さっ……」
麻生さんの前で! 
……って、何で麻生さんの前ではイヤなの、私?
焦っている内に、クイッと顎を持ち上げられていた。え……この体勢は、もしかして……。
「頬、大丈夫か? これで同性から殴られたのは2回目だな」
突然の顎クイに呆けていると、
「仕事中だ、阿呆」
麻生さんの腕が柾さんの首に回され、私との間に距離が開いていく。
この展開に安堵する自分がいた。その理由について、私は考えまいとした。
そうすれば、いつもの日常に戻れると知っているから。
なんだかどっと疲れが押し寄せ、私は生温いカフェオレ缶を一気に煽った。
その甘さは、麻生さんが触れた時に感じたモノに、ほんの少しだけ似ていた……。


2007.04.06(SAT)
2018.03.26(MON)

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